キャリアの棚卸 大分時代

人生のパラダイムシフトがくる。【エピソード1】

1987年(昭和62年)4月、老舗旅行会社に入社。

大分支店への配属が、社会人としてのスタート。

そこで出会ったある先輩(恩師)が..................

両親と妹、そして私の性格(入社前)

パラダイムシフト後の変化を書く前に、力郎を創った両親とその妹について、少しだけ触れておきますね(笑)。

父は、明治から昭和初期まで続いた小売店(屋号「あかかべ」)の次男として、大正11年大分県別府市に生まれました。北京大学を卒業したのち、第二次世界大戦で中国へ赴き武漢から重慶まで行軍、戦闘を経験。母は、昭和5年長崎県佐世保市で生まれる。代々職業軍人の家系で育ち、幼い頃は韓国や台湾(台南)で過ごしたとのこと。戦後は得意な英語を活用し、別府にあった米軍キャンプ(キャンプ・チッカマウガ )で勤務。会計全般を担当していました。そしてもう一人紹介するのが、一つ違いの妹です。彼女は、九州の大手電力会社で長年勤務していましたが、独学でソムリエの資格を取得。2年前に独立し現在大分市で「Wine Salon ム.ルージュ( Wine Salon ム.ルージュ)」というワイン・バーを経営しています。また一般社団法人日本ソムリエ協会の大分支部長でもあります。大分へ行った際は、ぜひともご利用ください。(写真:別府の八幡朝見神社にて)

昔からですが、「お金が無くとも、明るく、元気な家族」が、我が家のモットーです!

ぼぉ~(おっとり?)と、していました。

私はといえば、大學を卒業する頃まで、ハッキリ言って世間のことに全く関心が無く、食べること、柔道をすること、寝ることの「るるる」しか考えていなかったです(笑)。

小学6年時の体重が80㎏、中学時代は120㎏(写真)高校時代ではなんと140㎏!ありました。いつもお腹いっぱい食べたあと、消化する為に血液が胃腸に集中し脳ミソまで行かず、「ぼぉ~」としていることが多々あったと思います(笑)。そのせいか、人のことをあまり疑ったりせず、純粋に受け入れてしまうような性格でした。体系的には今の「くまモン」状態。子供とお年寄りから愛され、若い女性からは「ゆるキャラ」的存在で、ほぼ異性とのお付き合いもありませんし、お付き合いの仕方も知りませんでした。それだけ無関心、興味が無かったです。

一方、両親が戦前・戦中派でしたので、小さい頃から「教育勅語(教育勅語|明治神宮)」に触れる機会があり自然に内容を憶え、純粋に「国家安泰」や「五穀豊穣」、「世界平和」を願うようになっていました。

自分でも少し変わった性格だなっと感じていたように思います(笑)

入社しました。

入社後の研修(東京・大山)が終わり、配属先の発表!「大分支店に配属を命じる」。東京で働けることしか考えていなかったので、既に実家の家財道具はいつでも引っ越しできる状態に。「あら~!これは大変だ」と、実家に連絡し引っ越しをストップ。更に別府の同級生らからは既に餞別まで頂いていたので、これまた大変(汗)!。色々と言い訳などを思案しながら、これからの人生に期待と不安を抱いて九州へ戻ることになりました。

九州営業本部へご挨拶。

まず羽田から福岡へ移動。大分支店は九州営業本部管轄なので、まず本部長のSさんと営業本部の諸先輩方へご挨拶をする。「大分支店への配属を命じられました。小学校から14年間、柔道を続けており現在講道館4段です。しっかり頑張りますので、宜しくお願いします。」と。そのあとS本部長から頂いたお言葉(?)は、「体力だけでなく、頭を使い知力を使ってください。期待しています。」と..... 。その場では少々違和感を感じながら営業本部を出発。今年(1987年)から分割民営化となったJR九州の「特急にちりん号」に乗車(この時はまだ、ソニックは走っていません)。当時九州へ配属された同期は少なく、一支店1名あるか、ないか程度?。陸路、一人寂しく大分へ。

大分支店に到着!

ふぅ~。やっと大分へ。東京からスーツケースを抱え福岡から大分までの移動は、ちょっとした国内旅行。期待と不安にまみれながら、大分支店のドアを開ける!「失礼します。大分支店に配属になりました。只今支店に到着しました。宜しくお願いします。」と。店頭の若い女性が2階の業務課に連絡を入れて頂き、無事に支店長室にチェックイン。「大分支店に配属になりました。頭を使い、知力体力を最大限に生かし、一日も早く戦力になれるよう頑張ります。」と。M支店長から、「別府出身と聞きました。地の利を生かして頑張ってください。」とのお言葉を頂く。

ちなみに.........、あとから知りました(相変わらず「ぼぉ~」としていましたので、)が、大分支店は九州営業本部管内でも優秀な成績を上げ続けている箇所の一つで、大分支店でしっかり実績を上げることは、引いては九州内で出世することに繋がると、当時噂されていました。また九州の土地柄として、親分子分(上下)の関係ができやすい風土があり、大分支店のOB(一度でも大分支店で勤務経験のあるメンバー)になると、出世し易いとの風潮もありました。既にその時代から34年が経過し、大分支店出身だから出世するような流れは無くなりましたが、いまだに支店の実績は好調で「九州の雄」には変わり有りません。

営業課に配属。

大分支店は、総務会計を担当する業務課、小中高等学校を営業する教育旅行課、個人旅行を扱う店頭販売課(?)、そして私が配属された営業課の四つの課がありました。それぞれに課長(組織管理者)、GLといわれるグループリーダー(係長級)、数名の担当課長(部下無し)、それ以外に郵政顧問や教育顧問という肩書の方がおり、総勢約80名の社員で構成されていました。大分支店の教育旅行課は九州営業本部管内、いや全国の学校営業を担当する支店の中でトップクラスの実績を誇っており、「大分支店の教育旅行」といえば知らない人はいなぐらい有名でした。ある年には、県下全高等学校の教育旅行(修学旅行)の獲得を達成、獲得率100%のミラクルを起こすような一つの課」でした。よってこれまで歴代の新入社員は、教育旅行課に配属(取られてしまう)されていました。

そして私が、数年ぶりに営業課に配属となったのです! 営業課のお話をします。大分県の旅行市場において、学校(教育旅行)営業において絶大なる力を有する教育旅行課がある中、競合他社(当時は、KNTやNTAなど)が狙ってくる業界は、もちろん学校法人以外の分野になります。よってこの分野は激烈な勝負の場と化していました。営業課はその激烈な勝負の場、学校法人を除く全業種・業界をターゲットとして営業をする課です。建設業や金融業、製造業、医療業界、家電業界、自動車業界、各市町村長や商工会議所などなど。教育旅行(修学旅行)の様に、一回取り扱うことができれば3年間は継続できる、ようは毎年業者を変えることが難しい性質のものとは異なり、一般の法人企業や行政の案件は、ほぼ毎年見積競合にさらされます。営業初心者の私は、「さあ~、どのようにして営業をするか!?」を一から考えなければならない状況にありました。

先輩(恩師)登場。

大分支店に出勤してから1週間がたちました。基本的なシステム操作や一通りの業務について研修している時でした。2階の社内業務スペースから、激しく大きな声が聞こえてきました。「生きるしかばね拾うものなし!」と。

これは、日本の名作時代劇ドラマである『大江戸捜査網』において、毎回最大の見所である大立回りの直前に使用される有名な決戦ナレーションで、「死して屍拾うものなし」というフレーズをもじったものです。もともとは、「弱者や善人たちを虐げる諸悪な根源邪悪な化身に匹敵する下衆な外道を成敗し、この世の正義と平和を守らんとする愛される戦うヒーローたちであるが、同時に一般人には到底不可解な知られざる影の宿命をも有する彼らの明日なき挽歌も表しているらしい」とのこと。

「生きるしかばね拾うものなし!」。平日であり業務中、更に支店2階の業務スペースで、「大江戸捜査網」の撮影が始まるわけもなく(笑)、何が起きたのかビックリしたのを憶えています。

さてこの言葉の意味は何か?、そして先輩とは? この続きは次回で(笑)。

最後に。

今回も長文、お読みいただいた方に深く御礼申し上げます。

引き続き書いていきます。そして学び続け、高みを目指します。

皆様が、何時も元気で、明るく、幸せな生活でありますように!

感謝!

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